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虚無に呑まれ、そして、虚無になる。

 

 

さあ、今日はすごい体験をしました。

まだ、どこまで言語化できるかは分かりませんが、それでも、とても貴重な体験を得たので、少しだけ記録も兼ねて記述してみたいと思います。

ただ、これは私が体感してきた内的世界の物語で、とても抽象的な話で、思考実験でもあります。皆さんに、というより、私自身の記録と興味がある方へという感じの内容です。
過去と今が縒り合され、未来へと編みこまれていくような…内的な変容と統合です。

 

 

私の心の奥底には「虚無」の世界があります。それはまるで、底なし沼。実は、13年前に一度、この深い虚無の沼に落ちたことがあります。ここに落ちてしまうと、生きていく手がかりを失ってしましそうなくらい、怖い場所でした。

無価値観、無意味感、拒絶、否定、分離、対立、孤独、硬直、不信…「どうせ、私なんか」という思考に支配され、無味無臭で目に映る世界の色は失われ、灰色の世界です。生きているのに、死んだような感覚になります。生きている意味や価値が「無」にかえってしまうのです。

 

だからこそ、私は虚無の世界から逃れたくて、それを拒否したくて、とにかく逃げるようにして、自分のなかにある「虚無感」を固く封印しました。13年ほど前のことです。そこから、「生きる」を選択するために、か細い命綱を手繰り寄せながら、ただ目の前の日々を生き続けてきて、たくさんの出会いや経験を重ねてきました。今となっては、「虚無が居た」ことは知りつつも、遠く離れたことで、蜃気楼のようなおぼろげな記憶となっていました。

 

そして、現在、私の目の前に広がる世界は、まるで生きながらに楽園の花畑にいる気分です。穏やかにそよぐ風に夕焼け色の花々が揺れる。隣には、安心できる家族が居る。色と香りと温度、光、風が私を優しく抱き、「生きることの喜び」、「ただ在ることの安堵、安心」を、今の世界は私に感じさせてくれています。温もり、愛しさ、肯定感、安定、安全、交流、調和、心地よさ…「生きてきて良かった」とじんわりと感じられる優しい世界です。

13年前に突きつけられていた生きることへの危機は悪い夢でもみていたかのようで、一体何だったんだろうか…とまるで悪夢から覚めたのかと思うような、雲泥ほどに異なる世界観です。

 

それが今日、ある本(『シャーマンズボディ』アーノルド・ミンデル)とその読書会をきっかけに、虚無へと繋がる深い闇の穴が私のなかにぽっかりと現れたことに気が付きました。「あゝいよいよこの時が来た。私が自分の闇と虚無感に対峙する。理解する時が来たのだ」、と。

静かに真摯に、抑え込んでいた「虚無」の封印を解き、その世界へ再び、どぶんっ!と飛び込んでみました。ほんの10分ほどの時間です。

 

虚無の世界に入り、虚無の空気に覆われることで、私の眼にはすべてが灰色に見えることも、生きる意欲がそがれていくことも、変わりません。その迫りくる、すべてを奪われるようなエネルギーに恐怖を感じ、不安が煽られることも、やはり一緒です。つまり、「虚無の中の私」が感じる怖さは何も変わりません。「私がここに居る(生きている)」ことの意味が薄れ、力が体中から抜け出してしまいそうになる感覚です。

 

そこで、今度は意識的に、「私が虚無になる」ことを試してみました。つまり、虚無の立場・視点に立って、「私」を眺めてみるのです。虚無は何者で、虚無は私の恐怖心や生命力になにを与えようと(もしくは奪おうと)しているのかを知るため。「虚無」という存在を理解するためです。

 

そうすると驚くことに、虚無は、13年前に私が感じたもの、つまり、「私の視点」とは全くことなった実態をもっていました。

 

虚無は人ではありません。「世界観」と表現したら良いのでしょうか、私たちを覆う空気のようなものであり、エネルギーのようなものであり、体の外側にも内側にもある…ような。「あいだ」を満たしている何かです。

虚無になってみて分かったことは、「虚無」とは無感情であり、無感覚であり、グレーであり、何の意図も持っていないということでした。つまり、私(人間)を困らせようとか、苦しめようとか、そういった感情や意図は無い存在です。ただ、奪うような強く大きなうねりのエネルギー体である、ということ。そのイメージは、まるで津波のようで、大自然の動的なうねりのエネルギー。

それは破壊にもつながるほどのパワフルさで動いているだけ。そのエネルギーに触れることによって、波に呑まれるように、人は時に命を奪われることも、大切な何かを失うこともある。

 

その対極にあるのが、「生きることへの喜び」「ただ在ることへの安堵」という世界観。私はこの10年、意識的にその世界観にフォーカスしてきていたのだ、と自覚しました。それは、自分が生き延びるために。ここまで、逃げてきたのです。これが、私自身の命綱でした。

それはまるで、なだらかな丘がどこまでも続くような景色で、静かで穏やかな草木があふれるイメージです。命を奪うではなく、命に恵みを与え、命を育む自然環境のような。自然界の静的なエネルギー。

 

そこで、今度は「生きることへの喜びを与えるネルギーになる」を試みてみました。

そのエネルギー体は、人間界で言うところの「慈悲」や「慈愛」が放つ空気感と似ています。

けれど、やはりこちらにも意図もなく、無感情で、無感覚でした。つまり、人間を幸せにしてやろうという意図はなにもありません。ただ、世界の空気、エネルギー体として、静かにそこに存在しているだけです。

 

この両極のエネルギーになってみることで、気が付いたのは、「動的⇔静的」「モノトーン⇔カラフル」という質の違いはあるけれど、根本的な実態は同じであるということ。

 

その理解が現れると、対局にあった「虚無」と「喜び」は、私の見えない足元で、「U」の字のように繋がっていることに気づかされたのです。つまり、「虚無」と「喜び」は、二項対立しながら一対であり、表裏一体の一つだったという全体像が出現しました。

まるで、U磁石。S極-N極のエネルギーの間で、右往左往していた私。

けれど、「虚無」と「喜び」が一対の等しいものならば、私は「虚無」を必要以上に、怖れる必要はないのだと、感じることができました。

 

今日の気づきは、ここまで。

また、時間の流れの中で、理解や昇華が進むのだと思いますが。

「ハーフイン・ハーフアウト」このバランス感覚を私なりに模索しようと思います。