結論から先に言うと。
「やりたいコト」があるのではなく、「やりたい!というエネルギーが湧いてくるのを待ちたかった」というのが、私の本音の本音だったのです。
内面の高まりを「待つ」ということが重要であって、それは内面でのエネルギーチャージが100%に達したところで、自然と(「自ら然るべき」と「自ずと然るべき」を含む状態で)湧き上がり、行動や現実もそれに押し出されるように、立ち上がってくるような状態。
その状態こそが私がなりたいもの、やりたいことだったのです!
つまり、「今、どうしてもやりたい!」という100%のエネルギー状態。
それなのに、「やりたいコト探し」として私自身が誤解し、「100%私がしたいコトは何??」と求めるものにズレが起きていたのです。
私は「絵が描きたいの?」「文章が書きたいの?」「WSがしたいの?」「教室がしたいの?」「デザインがしたいの?」「研究がしたいの?」「海外にいきたいの?」「みんなと何かがしたいの?」「一人になりたいの?」…というコト探しに、うーむと足踏みをしていたわけです。
したいコトはやはりたくさんあるし、すでにやってもきている。好きなことを自由にする環境も用意されている。一体、私は何が満たされないのか。なぜ、動けないのか。
私の目の前には、自由にやれること、やりたいことが、雪崩のように押し寄せてきていて、まさにカオス状態…^^;
この「やりたいコト」の山から、まずは一つ選んでみよう、とにかく動いてみようと思い。
「あらためてお尋ねしますが、じゃあ、今、一番したいことは何??」
と自分に問いかけてみました。
「……………ん??」
すると、まさかの何も浮かばないのです!
あれれ!?したいことが浮かばない、というか、したいことが無い!?という衝撃の事実(笑)
この感覚を、丁寧に観察すると、「一人になりたい」「何の目的もなく、何もせずにボーっと美しい景色を眺めていたい」という気持ち。
さらに紐解いてみると、出てきたのは、「一人静かな場所で、自分の内から湧き出る何かを待ちたい」という感覚だったのです。
でたーーーー!!これか~~!!
求めていたのは、「100%やりたいコト」ではなく、「やりたい!が100%の状態」。
似て非なるものでした、あはは(笑)
つまり、私にとっては「やりたいコト」は、たくさんあるし、何でもいいわけです。
その時、表現したい方法を自由に選らんだらいいのであって、表現したいエネルギー状態を待つ。このエネルギーが満たされたときに放出されるパワーの大きさがすごいのです。それを本能的に知りながら、どこかで、「やりたい気持ち」を思考や自分の意識でのコントロール下に置いてしまっていたようです。
すぐに結果を求めたがる社会のあおり、行動⇒結果というアクションがまず大事という風潮の影響もあるかと思います。エネルギーチャージがされないうちに、やりたいコトをしているため、どこかで不完全燃焼を起こしていて、もっとやりたいコトが他にあるのでは??という錯覚のなかで、「やりたいコト探し」のエンドレスのループを走っていたのです。
あれもちがう、これもなんか違う…と一人ブツブツ言いながら。周りの人から見ると、「いやいや、十分、十二分、やりたいコトやってますがな!!」というツッコミがあるわけです(笑)いやはや。
行動・結果のアクションを求める前に、「行動が起こる以前を整える」ことが大切だったということです。意思や思考で「行動は起こす」のではなく、自然と「行動が起こる」という「自らと自ずから」の状態になることがポイントなのだと思います。
こう考えると、さらに見えてきたのは、私はある時点から「~しなければならない」という思考と行動を変えたくて、実験的に「~したい」だけになるという暮らしをしはじめました。もちろん、「~したい」から発する暮らしに変えただけでも十分に暮らしの充実感などの変化はあったものの、何かが満たされない感じがしていたのです。したいことをしているにも関わらず!そこで気が付くのは、「〈~したい〉をしなければならない」という矛盾した発想がその根底にあり、行動パターンは「~しなければならない」と変わっていなかったのです!がーん(笑)
なので、「したいことをしなければならない」⇒「したいことをまずは探さなければならない」⇒「したいと思ったことを行動しなければならない」⇒「したいことをしているのに何か満たされない、動けない私」⇒「もっと、したいことがあるはずで、それを探さなければならない!」…ひえぇぇぇ。「しなければならない思考」に完全に支配されているではないですか!
そうなると、「したいことが出てきたら、したい時にすればいい」「したいことが無いときには、しなくていい」…ゆるやかに自分の気持ちに添えばいい。自分のためにしてもいい、全部を自分のためにしなくてもいいし、誰かのために生きる時間も、やらなければでタスクをこなす時間もあっていい。何周も回りに回って、やっぱり自分が好きなこと何をしていてもいい。言葉にすると、まったく同じなのですが、立っているステージが何だか違う。
心を解放するって、「どちらでもいい、何でもいい」と思えるようになることなのだ、と。
そうかぁ。
こうして、自分がはまり込んでいた構造が見えたとき、日本画を学んだ恩師の言葉を思い出しました。
「描きたい」という想いって、生き物のようなもので、自分の世界に放し飼いしておくことが大事でさ。それを、自分の手に捕まえようとすると、するっと逃げられちゃうのよ。掴みにいこうとすると、いつまでも、捕まらない。そうすると「描きたい」が逃げちゃって「描けなくなる」。だから、自分のなかで自由に泳がせて、姿が見えたり見えなかったりしても、飼っておこうぐらいの気持ちがちょうどいいのさ。
今、私の古い引き出しから出てきたこの言葉。これを聴いたのは、18‐19歳くらいの時だったかな。その時は、「ふーん」ぐらいの話でしたが、今の私には、なるほど、こういう意味だったのかと。「やりたい気持ち」は生き物みたいなもので、自分のなかで自由に泳がせて飼うものだった。掴もうとすると逃げられる。広く自由に泳いでもらえる環境を私が私の世界に、ゆったりと持つ。姿が見えないときは、そのうちにと待てばいいだけ。
はあ~、何だか脱力します。
ということで、私の「やりたい気持ち」はどこへ行ったのかな~、のんびり眺めてみることにしますよ~(笑)