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ママへの好きが、消えちゃったの。娘の自立、その先にある未来。

 

 

3歳11か月の娘。

この夏、ぐんぐんと成長をしています。

 

いつからだったでしょうか。

娘が意思を表現できるようになってから、「ママ、だーーーーいすきよ。いつにまでもね(いつまでもね)」と言ってくれるようになりました。

最近では、数字が大きさを表すのだという認識も加わったようで、「ママのこと、こんなにこんなにこんなに!59mも大好きだよ」と表現してくれるようになっていました 笑

私は「ママはあおにゃんのこと、こんなにこんなにこんなに…100mも大好きだよ」というお決まりのやり取りをして、とても幸せな気持ちになります。子育ての醍醐味かもしれません。

 

そんな娘が、数日前から「ママのこと大好きだったよ…」と過去形で言うようになりました。その文法の変化には気が付いていたのですが、単に、子どもの拙さ、新しく覚えた語彙を使いたいだけの話だろうと、「何でソコ過去形なん??笑」とツッコミはいれつつも、気にせずにいました。

が、しかし!

昨日になって、娘は過去形を意図して使っていることが判明しました!

いろんな意味で驚きです。

 

昨晩も、猫のようにゴロゴロとくっついてきて、「ママのこと大好きだったよ…」と神妙な面持ちでおっしゃるので、「何でそんなに、泣きそうな顔しているの??」と尋ねました。

すると…。

 

「ママへの好きが今まで体いっぱいだったのに、それがだんだん外へ流れていって、あおにゃんの中から消えちゃったの。それが悲しくて寂しいの。あおにゃんは、ママへの好きが、いっぱいのまんまが良かったなーと思って…」

 

そう言って、はらりはらりと涙を流すのです。

なんということでしょう!確かに過去形でした!笑

正確に日本語文法を使っているということにも驚き。自分の心の状態をこんなに言語表現できるほどの表現力と内観の眼が育っていることにも驚きました。彼女は3歳です。

さらに、「ママへの好きは、外に出ていって、どうなったの?」と尋ねてみました。

 

「お外のいろんな人に会うのが好きってなったの…」

 

そうかー、そうなんだー!

娘の成長をそこで発見することができました!

 

「ママがすべての世界」から「外の世界」へ意識が移行しつつある彼女。つまり、自立の一歩という大きな「自分の世界」への旅に出ようとしていて、安心し慣れ親しんだママを恋しく思いつつも、未知への冒険心が立ち上がろうとしている。その揺らぎの最中にいる!!

それは、〈自他同一〉と〈自他分離〉の最中であり、境に立っているということ。

あゝ娘の心の発達、その感動。

 

実は私、自分の心の状態はもちろん、人の心の状態でさえも、手に取るように感じられてしまうという特質を持っています。

だからこそ、人間の心の発達という複雑であり、繊細であり、ダイナミックな生命活動を、親として寄り添い、つぶさに観て、感じられることに大きな感動があるのです。私にとっては、こうした心の微細な動きにこそ、人が生きる圧倒的な荘厳さと美しさがあると感じるのです。

 

この子が、自分の心を自由にのびやかに表現し、心を弾ませながら居られる環境を。

 

それが、今の私の「日々を暮らすこと」と「働くこと」での哲学であり、目的になっています。

 

「日々の暮らし」では、娘と旦那さんが、ご機嫌に暮らせるような環境を整えること。その要は、私。私がご機嫌に暮らせる環境こそが、娘と旦那さんの心地よいにもつながるというのが、我が家での安心の法則になっています。

ここでいうご機嫌とは、自分の心を自由にのびやかに表現し、心を弾ませながら居られること。体感としては、力が抜けていて、その瞬間を味わうための余白が、精神的にも体力的にも十分にある状態。私がその状態にある環境=他の人にも同じ状態が起きやすい環境という考え方です。そのため、自分の家族だけでなく、他の誰かにとっても共通の環境設計となるのではないかとも考えています。

 

「働くこと」では、娘の未来につながる働き方を模索している、今です。

方法は2つあって。一つは、働くことは、社会のなかでの自分の自己表現・自己実現・自己成長であるという、自分の存在・成長のスパイラルと働くことが一致した状態になること。そうした仕事の在り方を肌で感じてもらいたいという願いがあります。社会で自分を表現しながら働くことは、自分だからこその仕事となり、〈自らの喜び=誰かの喜び〉となっていく。それは私自身が体現してみたいことであり、同時に、娘の未来がそうであって欲しいという願いです。

もう一つは、働くことに限らずですが、社会との関わりの中で個性が活かされていく価値観が育つために、何ができるだろうかと模索しています。つまり、〈個=全〉の状態が、この社会で実現されるためには、どんなコミュニティデザインが必要なのか?心と体への理解が、どう進めば良いのか?すべての人に内在している創造力をいかに発揮していくのか?そのキーはアートにある…といったことを考えています。

今、次なる社会のステージに向かおうと、大きな価値観の変容が人類レベルで起きようとしているのではないかと、私は感じています。そうしたサインを、日々の端々で感じています。だからこそ、社会の前提をまったく新しいステージに押し上げるような、ニュータイプの社会のデザインの検討が必要なのだろうと。その一端で、私も力を注げたら良いなと思っています。それは、娘のために、自分の未来のために、同時代に生きるすべての人のために。

 

ちなみに、自分の心地よいや不快を追究探査していくと、「人類普遍の層」に当たることがあります。

つまり、個の感性・感覚の底には、人類として共通の快・不快がある。そのためには、思考や理解といったアタマではなく、心と体という「体感」に意識を注ぐことが重要です。ここに、「個=全」という社会の可能性が、ヒントがあるのではないかと、模索中です。

 

娘の成長、自立、その先にある、未来の社会。

半径5メートル、目の前に広がる自分の小さな暮らしにこそ、幸せを求める。

その中に、未来の社会を描く種がある。

 

ぜひ、興味をもってくださった方は、声をかけてください。

話しましょう、実現したい未来について。